ホログラフの正体(by苅田倫子)

子供の頃に、お化け屋敷とかの中で、暗闇に浮かび上がる立体的な、実体のない、動くお化け(ホログラフ)を見て驚きつつも「何だろう?これ?」と、手でその空間を探ってみたことがある。
映像なのでもちろん手でつかむ事はできない。大人になった今、あれって一体どういうからくりでできているんだろうと思う。

パパが、そのホログラフの仕組みを表す絵と文章を見つけてきた。
それによると、元の画像は同じものなのだが、出力の始まりは同じでも、投影するスクリーンにその情報を届けるまでの間に、一方は反射させて写し、もう片方は何かを通して写す、というように二種類の投影の仕方を取ることでその間に時差を作り出し、その時差を利用して目がその情報を見たときに立体的に判断して(錯覚)、出力も写し方も一つのものよりも、よりリアリティをもって表現することができるらしい。

ちょっと話がそれるが、パパが、新しいDVDを作るにあたって、キャロラインさんの歌を流していた。
いつもDVDを作るときは大事で、リビングでPCとDVD プレーヤーをつないで、確認しながらの作業なので、この時ばかりは、ピリピリしている。
この時も同じで、私はいつものように台所で洗い物をしながらその作業を見るとはなく見ていたのだが、あるとき面白い発見をした。
音が、TVモニターのスピーカーとPCのスピーカーの二ヶ所から聞こえていたのだが、低い声のときは感じられなかったのが、高音のところで音に時差が生まれているのか、微妙に重なって聞こえるのだ。サラウンドスピーカーで聞いたような、臨場感を持って聞こえる。でも、低い音、声のときはそんな風には聞こえない。今までと同じ普通に、平べったく聞こえるだけだ。

何でだろう?

高音と低音では音の周波数が違うからなのだろうか?周波数が違うというのは以前から知っていたが、それがどうなのか、どう作用するのか、さっぱり分からなかった。
周波数が違うということは、波形に表したとき、波が始まって終わるまでの長さが違う、ということなんだよね。音の波が長ければ、長く聞こえているけど、短ければ、すぐに聞こえなくなる。当たり前のことだ。

ということは、低い音の時、気にならなくて、高い音の時、立体的に聞こえる(時差がある)というなら、高い音のほうが波の長さが短いのか?詳しくはよく分からないが、少なくとも、この体験で『周波数が違う』ということがどういうことなのか、身をもって知ったような気がする。

そこで、話を元に戻すが、映像でホログラフを作る時、映像の出力の方法に時差を生み出すことで作成しているのなら、音でホログラフを作ることも可能なのではないか?要は、先の体験をもっとそれらしく組み立てていけばいいのだ。

パパが探してきた情報に、『3Dホログラフ・サウンドシステム』というのがあるらしい。
普通は自分が得た情報は『ショート・ターム・メモリー』(一時的なファイル)となって、一定の時間を経過した後に『ロング・ターム・メモリー』に移るものもあれば、そのまま消えてなくなる(忘れ去ってしまう)のがほとんどなのだそうだ。中に、衝撃的な体験をしたりした場合は、『ショート・ターム・メモリー』を飛ばしていきなり『ロング・ターム・メモリー』に入っていくものもあるらしい。
この『ロング・ターム・メモリー』は、一度インプットされると絶対忘れることのないものだそうだ。また、その容量も凄いそうで、いくらでも際限なく入っていくらしい。
この部分にいつでも直接働きかけることができれば、一度覚えたことは絶対忘れない、また、いつでも取り出し可能な、スーパーコンピューターのような能力を発揮できることになる。

この『3Dホログラフ・サウンドシステム』がその夢のような作用を発揮するらしいのだ。

このシステムを目にしたことはないので、何ともいえないが、先の体験から察すると、音も単に鼓膜を振動させるだけの単一的な感知の方法だけではなく、同じ音を例えば、皮膚を振動させて感知させたり、骨に直接働きかけたり、はたまた、神経に直接働きかけたり、というようなことを、同時多発的に行うことで、ひとつの音源から脳が認識・感知するまでに時差が生まれ、その結果、より立体感を持って、リアリティ溢れる音へと変化させることができるのではないか。

こうして『聞き取った』音は、自らにとってはまさしく『センセーショナル』な体験となるため、結果、『ショート・ターム・メモリー』を飛び越えて、いきなり『ロング・ターム・メモリー』へとジャンプするのだ。一度インプットされてしまえば、決して忘れることはない。凄いことじゃないか!!

同じように、視覚においても、私たちが日頃目にしている『モノ』は、どういうメカニズムで見ている(目に映っている)のだろう。『ものが見える』とはどういうことなのだろう。

光が目に入ってくるとき、その対象物と自分の網膜との間に距離があるために(『モノ』の持つ立体感自体が距離になる)、そこに時差が生まれて、結果、『モノ』が立体的に見えるのではないか。

ホログラフの作り方が二次元的に作り上げるのだとしたら、それをもっと多角的に、出来るだけたくさんの角度から、同時多発的に同じ画像の情報を同じスクリーン上に映し出したら、もっとリアリティを持って、立体的に映し出すことが出来るのではないか。

ということは、私たちが日頃体験しているこの現実は、いかに繊細で、たくさんの情報が同時にありとあらゆる方向から一点をめがけて、集中して寄り集まってきているかということである。そうして出来たホログラフの数々を私たちは何の疑問も持たず、当たり前のこととして、それこそが『現実』だと信じてきているか、という事なのかも知れない。私たちが生きているこの世界(観)は、実は、突き詰めていくとこうした繊細な、多くの情報がそれぞれの場所から一点に集まって、それぞれのホログラフを作り上げた集大成の世界で生きているのではないか。現世(うつしよ)とは本当によく言ったものである。

視覚、聴覚がこれでクリアーできれば、味覚、触覚、臭覚、などのその他の五感といわれる感覚器官も、このような方法の応用を使うことで、より研ぎ澄まされていくのではないだろうか。

バーチャルな世界でこうした事を実行させようとするのがいかに大変かを知ったとき、今更ながらに今、自分が生きて、この現実を体験していることの不思議と素晴らしさに、感動すら覚えてしまう。よく考えてみると、自分の身の回りの自然のすべてにこうしたシステムが働いているわけで、そこに思いを馳せてみると目まいがするくらい壮大な、宇宙の仕組みを感じずにはいられない。『いのち』って素晴らしい。